この顔じゃない気がして、描きなおすループ

タイトル:「ブーゲンビリアとシーサー」
サイズ:F4号(24.2 x 33.3 cm)
技法:油彩/キャンバス
制作年:2025年

描きたいのは人物に限らず、
風景も静物も好きです。

空のグラデーションや、遠くの木々の重なりに、ただ静かに見とれる時間も好きだし、
葉がこすれる音とか、風にゆれる姿に惹かれる。
そこに何か、見えない囁きみたいなものがある気がして。

でも人物を描きはじめると、どうしても表情にこだわってしまう。
目の奥の“何か”を追いかけてるみたいな感じ。
喜怒哀楽じゃなくて、ほんのわずかな角度とか、気配とか、
そういう曖昧なものにやたら敏感になる。

今もF30の人物を描いてる途中なんだけど、
とにかく顔を描き直す。描いても描いても、また描きたくなる(笑)
「宿った」って思えるまで、筆が止まらない。

たぶん、絵の中に “知らないわたし” を浮かび上がらせようとしてるんだと思う。

人物でも、風景でも、抽象に近いものでも、
描き終わってふと眺めると、いつもそこには「わたし」がいる。
思ってた以上に、自分の内側って隠せないんだなって思う。

静かな絵を描いたつもりなのに、背景にざわざわが出てたり、
人物の表情に、描いた覚えのない憂いが乗ってたり。
あれは一体どこから来るんだろうって、いつも不思議になる。

本音では、自分のために描いてると思う。
誰かのため、というより、自分が「見たい絵」があって、それに近づこうとしてる。
描きながら、“まだ見たことのない自分の絵”を探してる感じ。

そうして生まれた絵を誰かに見てもらえること。
それが、わたしの深いところにある欲なんだと思う。

描くことで、まだ知らない感情に出会いたいし、
触れたことのない風景にも出会いたい。

自分の中にも、外にも、まだ知らない場所があることを、
絵を描くことで感じることがある。
描かなければ見えなかったものが、
ふいに気づきをくれることもある。

そういう発見があるから、たぶん、わたしはずっと描いてるんだと思う。

表情にこだわるのも、風景に目をこらすのも、
ぜんぶ「わたし」というフィルターを通って出てくるもの。

みんな同じ世界を、違う目で見てる。
それって、けっこう大事なことなんじゃないかと思う。

だから、わたしが何を描いても、
「山口ミドリの顔をした絵」になってたらいいなと思ってる。