描きたいのは人物に限らず、
風景も静物も好きです。
空のグラデーションや、遠くの木々の重なりに、ただ静かに見とれる時間も好きだし、
葉がこすれる音とか、風にゆれる姿に惹かれる。
そこに何か、見えない囁きみたいなものがある気がして。
でも人物を描きはじめると、どうしても表情にこだわってしまう。
目の奥の“何か”を追いかけてるみたいな感じ。
喜怒哀楽じゃなくて、ほんのわずかな角度とか、気配とか、
そういう曖昧なものにやたら敏感になる。
今もF30の人物を描いてる途中なんだけど、
とにかく顔を描き直す。描いても描いても、また描きたくなる(笑)
「宿った」って思えるまで、筆が止まらない。
たぶん、絵の中に “知らないわたし” を浮かび上がらせようとしてるんだと思う。
人物でも、風景でも、抽象に近いものでも、
描き終わってふと眺めると、いつもそこには「わたし」がいる。
思ってた以上に、自分の内側って隠せないんだなって思う。
静かな絵を描いたつもりなのに、背景にざわざわが出てたり、
人物の表情に、描いた覚えのない憂いが乗ってたり。
あれは一体どこから来るんだろうって、いつも不思議になる。
本音では、自分のために描いてると思う。
誰かのため、というより、自分が「見たい絵」があって、それに近づこうとしてる。
描きながら、“まだ見たことのない自分の絵”を探してる感じ。
そうして生まれた絵を誰かに見てもらえること。
それが、わたしの深いところにある欲なんだと思う。
描くことで、まだ知らない感情に出会いたいし、
触れたことのない風景にも出会いたい。
自分の中にも、外にも、まだ知らない場所があることを、
絵を描くことで感じることがある。
描かなければ見えなかったものが、
ふいに気づきをくれることもある。
そういう発見があるから、たぶん、わたしはずっと描いてるんだと思う。
表情にこだわるのも、風景に目をこらすのも、
ぜんぶ「わたし」というフィルターを通って出てくるもの。
みんな同じ世界を、違う目で見てる。
それって、けっこう大事なことなんじゃないかと思う。
だから、わたしが何を描いても、
「山口ミドリの顔をした絵」になってたらいいなと思ってる。