風呂なしアパートで過ごした子供時代

わがままグレイキャットと。

私の母親は今年85歳になります。
わたしは遅くなってから生まれ、兄が一人いますがひとまわり離れています。

小さいころ母子家庭で育ち、風呂なしアパートで中学生まで生活していました。
わたしが10歳になる前にあたらしい男の人が家に入ってきたのですが、そのひととの暮らしになじめず、高校も行かずに家を出てしまいました。
(その後考え直して定時制に入りなおすんですが、不良が多くてやめてしまいました。)

子供のころ、留守番が多く、友達と遊んでもうちだけ門限がなく、なんだかんだで心にいつも寂しさを持っていた感じでした。
下宿先で生活をするひとまわり上の兄は、週末に来てくれ、父親代わりでないけど話を聞いてくれたり、してた気がします。音楽や芸術についての情報は兄からでした。

子供のころ、わたしは母親が大好きで「またお母さんのこどもに生まれたい」と思っていました。
母親はいつもきれいで、年よりも若く見え、明るい性格でした。学校の友達のお母さんたちのように生活感がないような人でした。
スナックなど夜の商売が多かったためかもしれません。

そのアパートがとにかく狭く、食卓のわたしのポジションや、布団を敷く場所はぜんぶ新しい男性に取られてしまい、3畳と6畳の部屋のうち、わたしは3畳の部屋で寝ることになりました。

アコーディオンカーテンという堅めの布みたいな仕切りをしていたため、3畳にいても6畳の人の声やいろいろな生活音が聞こえていました。
そういう生活がいやで、わたしは早く家を出てしまった。それからずっと働いてきました。

母親は不思議な人で、周囲の人間を自分のほうに向かせる力を持っていました。毎年、わたしが45歳くらいまで正月は必ず母親のもとで過ごしていました。それが当たり前だと思っていたからです。こんなことがほかにもいろいろありました。

今はYoutube動画やネット情報でいろいろな知識が得られるため、私の状態がどういったものだったか、冷静に判断することができるようになりました。
すると、母親は実はこどもっぽく、自分の寂しさを埋めるために周囲を取り込んでいるということに気が付きました。

母から無神経な発言が多かったことにも気が付きました。

私自身の生活はもちろん別の道として進んでいましたが、長い年月、母親の人生になにかしら干渉されていたと思います。
母親はわたしのことを「大切だ」といいますが、それを素直に受け取ることがもうできなくなってしましました。

「もう一度お母さんのこどもに生まれたい」と思わなくなりました。

自分の親をこんな風に思うようになってしまったことは悲しいことです。

一般家庭とはだいぶ違う歩みをしてきたことで、わたしは、良くも悪くも、自分自身を持っているのだと思います。そのおかげで人と考え方が違うことも多いです。

でも最後には「楽しかった」「これで良かった」と思える旅ができたら…と思います。

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